2018年11月7日水曜日

作曲パートナーは3年前後で交代

Whitesnakeのメイン・ソングライターはもちろんデイヴィッド・カヴァデイルで、一人でも曲を作れるが、大抵ギタリストの相棒と組む場合が多い。作曲能力が高い相手で、ギタリストなので曲の核となるリフを作ることも出来る。
その作曲パートナーは約3年で交代するという話し。

Whitesnakeの歴史を見ると、初期の売れない時代はミッキー・ムーディ、バーニー・マースデン、メル・ギャレーといったギタリストがいて、ブレイクした時はジョン・サイクス、エイドリアン・ヴァンデンバーグ、ヴィヴィアン・キャンベル、ステーヴ・ヴァイといった面子で、前者と比較すれば後者の方が圧倒的に華やかだし、ハイテク・ギタリストになる。

前者はアルバム6枚とデビューEPを作り、後者はアルバム2枚(最初の解散をした『Slip Of The Tongue』までで数える)。
長い不遇の初期と短いブレイク時代というふうに見えるが、しかし、実際は初期の活動ペースが早過ぎるためにそう見えるだけだ。
更に言うと、メル・ギャレーとジョン・サイクスの在籍期間はとても短く、アルバム1枚でいなくなった印象が強いが、実際は意外にも結構長い

まず、在籍期間が一番長いミッキー・ムーディを見ておこう。ミッキーはあまり多作ではなく、デイヴィッドの作曲パートナーとしては不充分な存在となる。作曲パートナーとしては、Deep Purple解散後の1977年のソロの1st、翌年の2ndで活躍したが、Whitesnake結成後はその座をバーニーに奪われてしまう。しかし、ミッキーは作曲に携わらないというのではなく、その後も曲を提供し続けているので、他のギタリストと比べると立場が特殊だ。バンド創設メンバーでブルージーなプレイが得意なところを買われていたのだろう。ブルージーなギタリスト・ミッキーと作曲パートナーのバーニーというのが初期の図式だ。
1976年後半から78年前半までとなり約2年ということになる。

バーニー・マースデンは1977年末に加入するが、作曲パートナーらしくなるのは78年の『Trouble』制作時から。78年の前半はデイヴィッドの2ndソロの『Northwinds』を制作とリリースの時期だったので、78年中盤からということになる。
そこからは相思相愛的に蜜月の関係で順調にバンドのキャリアを上げていくが、ヒット曲『Fool For Your Loving』を出した後あたりから下降線に入る。馴れ合い・マンネリといった悪循環に陥り、1981年『Saint & Sinners』制作中に活動停止(正確には82年1月で停止)、バーニーはそのままバンドを離れることになる。
1978年中盤から1981年いっぱいまでなので、3年半だ。ちょっと長めだが、誤差の範囲内としてほしい。

デイヴィッドは当初よりTrapezeのギタリスト・メル・ギャレーに目をつけており、Whitesnake結成時にも声をかけて断られていたが、1982年になってついに成就した。バーニー同様、一番に作曲能力を買っていての勧誘だった。彼の作曲能力は『Slide It In』で充分に発揮されている。
メルがバンドを去ることになるのは、ツアー中にふざけて車の上で飛び跳ねていたところ、足を滑らせ屋根から落ち、更に運の悪いことに同様にジョン・サイクスがその上に落ちたために腕を骨折してしまったことによる。当初はドイツの病院に入院し回復を待ったが、腕にギプスをつけなければならなくなり、デイヴィッドに「そんなものをつけた君を見たくない」と言われ、そのまま解雇となってしまった。
1982年後半(夏の終わり頃)から84年後半(やはり夏の終わり頃)で2年。少し短めだが、それでも2年はパートナーの座についていた。

メルの離脱はツアー中だったので、新しいギタリストを探している暇はなく、Whitesnake史上唯一の一人ギタリスト時代となる。メル在籍時は比較的おとなしくしていたサイクスが、一人ギタリストになってからは俄然存在感を増していく。Whitesnakeというバンドは「看板のデイヴィッドとサザンロック風バックバンド」であったが、「スーパー・ヴォーカリスト、スーパー・ギタリスト、スーパー・ドラマーのいるスーパー・バンド」に変貌した。それでサイクスへの信頼感も増して、次のアルバムはこのメンバーでいくことを決める。作曲パートナーはもちろんサイクス。
サイクスが力を発揮した(加入は1983年)のはメル・ギャレーがいなくなった1984年の後半から、ケンカ別れとなった1986年暮れまでで、約2年半。

エイドリアン・ヴァンデンバーグは、『Serpens Albus』に対する貢献は1986年暮れの「Here I Go Again」レコーディングのみで、しかもこれはバーニー時代の曲なので、ギタリストとしての貢献はあったが、作曲パートナーとしてはツアー中にデイヴィッドと作曲を始めてからなので、1987年後半ということになる。1990年に解散となるので3年半となるが、途中レーコーディングの期間にぬけているので3年。
Slip Of The Tongue』はほぼエイドリアンの曲だが、腕の不調で離脱した際、スティーヴ・ヴァイへあれこれ注文をつけることはなく、完全に引っ込んでいたというから、曲のアレンジやギター・パートについてもこの時期のインプットはないことになる。

この時期以降のWhitesnakeは活動のペースもゆったりしたし、メンバーの他の活動も認めるなど、だいぶ変化したので、この『約3年交代説』もここまでとなるが、デイヴィッドは意識はしていなかっただろうが、結局コンスタントに相棒を取り替えていたことになる。
バンドの顔は、もちろんデイヴィッドであり、デイヴィッドさえいればWhitesnakeは成立する。曲の善し悪しやバンド内の適度な緊張感といったものが低下して来ると、新しい血を導入する。長く続ける上で常に新鮮でいる秘訣なのだろう。マンネリ化も避けられるというものだ。

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