2018年11月29日木曜日

John Lennon

1940-1980

今年もまたこの季節がやって来る。毎年12月8日前後になると思い出す。偉大なミュージシャンの死にこれほど衝撃的だったことはない。暗殺だ。
政治家でもマフィアでもない、ただのミュージシャンを暗殺するなど、あり得るだろうか。それが現実になった。本当に信じられない。

ジョンは、もちろんBeatlesの主要メンバーの一人で、ほぼ創設者兼リーダー(少なくとも初期は)だ。ジョンに憧れ影響を受けた人は世界中に数限りなくおり、私もその一人。
皮肉なことに、私とジョンの出会いはこの暗殺事件のニュースだ。小学生だった当時、私はBeatlesは名前くらいしか知らず、「外国の歌手」という認識で、その一人が殺されて衝撃的だったという周囲の反応を覚えているくらい。それと、その頃のニュースでよくかかっていたのが、なぜか「Yesterday」と「Let It Be」が多かったということ。どちらもポールの曲だが、物悲しい雰囲気と暗示的な内容が何となく事件とマッチすると判断されたのだろう。
この事件をキッカケに私はBeatlesに詳しくなっていく。

さて、言うまでもなくジョンは偉大なミュージシャンで多大な影響力を持っていたが、ジョンの偉大さとBeatlesの偉大さは必ずしも一致しないと思う。
Beatlesは社会現象で、ポピュラー・ミュージック界を変え、ロックのスタイル(演奏スタイルから作詞作曲、録音方法まで)を変え、というような、もちろんとんでもない影響力を与えたバンドなのだが、ジョンの場合はその生き方そのものにメッセージ性や考えさせるもの、影響力がある。この部分ではBeatlesの他のメンバーよりもジョンは圧倒的だといえる。

Beatlesの中期頃までは、皮肉家だったり、攻撃的だったり、ジョークがちょっとキツかったりはするものの、他のメンバーとあまり変わらなかった。しかしオノ・ヨーコと出会い、「All You Need Is Love」を歌うあたりから急速に変わっていく。それはヨーコが変えたというのではなく、もともとそういう部分があったところに、ヨーコが触媒のような働きをしたということだと私は理解している。ヨーコと出会う前から、ジョンの詞は内面をえぐるようなものが多かったし、結構赤裸裸で、傷つきやすさのようなものがあった。勢いがありカッコいいロック・ソングの「Help!」だって、曲調からは考えられないような詞だ。そもそもロックにハマったのも、「ロックはリアルで他のものはアン・リアルに見えた」ということだったので、最初から本当の自分、本当の姿、本当の姿勢やアテテュードといったものを求めていたのが分かる。

ヨーコと出会ってからは、バンドよりもより自己探求のような姿勢になり、また一方で反戦運動をしたり政治的なメッセージを語ったりするようになる。Beatlesは人気者(=アイドル)だったので、万人受けを狙い政治的な発言を慎むようにしていたが、「発言できないのならグループを去る」とまで言うようになる。
様々な反戦運動を行う中で、多くのファンを失い、敵対者すら現われ、アメリカ政府からも疎まれるようになる。一時はアメリカから国外退去になったりもし、ヨーコとも別居したりもするが、1975年に再びヨーコとくっつく。10月7日、4年に渡るアメリカ永住権を巡る裁判に勝訴。国外追放命令の破棄を勝ち取る。その連絡を受けたジョンは歓喜し、翌日臨月で入院中のヨーコに報告に行く。その日の深夜、待ち望んだ二人の間の子(ショーン)が生まれる。永住権と我が子がほぼ同時に手に入れたことになる。しかもその時に最初に交わした時のヨーコさんのセリフが凄い。「今は何時?」と聞いて12時を過ぎていることを知ると、「Happy Birthday, John」という。10月9日はジョンの誕生日だ。何てドラマチックなんだ。そしてすべてを得たジョンはショーン君を育てるために専業主夫となり、すべての音楽活動を停止するという、これまた驚きの行動に出る。
そして1980年、5歳になったショーン君に「パパはBeatlesだったの?」と聞かれたことをキッカケに音楽活動を再開し、5年ぶりにのアルバムをリリースした矢先、暗殺される・・・。波乱万丈では済まされないような激しい人生。

私はジョンから優しさとか挑戦する勇気とか正直さとか、様々なものを学んだが、最も重要なことは等身大の自分を見つめることではないかと思う。奢らず飾らず、しかしへりくだりすぎず、自分を卑下することもない。自分をよく見つめ、その自分に素直でいることが大事なのではないかと思って生きている。素直でシンプルというのは一番の強さではないかと思う。この辺りを突き詰めていくと、結局「Imagine」の世界観になっていくようで不思議だ。
人に接する時も、恐れず、相手を過大評価せず、見下さず、過小評価もしない。つまり等身大の相手を見ることが出来るようになりたいと思う。そして等身大の自分を出せるようになりたいと思う。

2018年11月22日木曜日

Beatlesのリミックス

Beatlesのリミックスを望んでいる。「Beatles原理主義」とでも言うような「絶対オリジナル主義」のファンも結構いるようだが、個人的にはリミックスに大賛成だ。
もちろん、私もリアル・タイム世代ではないから、後追いとして当時の音をそのまま聴きたいと思う気持ちは強いし、『Love』のような企画はたまには良いが、頻繁だと神話を冒涜されているようであまり良い気持ちはしないし、どうしても60年代を神聖視してしまうような部分もある。

すでに最後のオリジナル・アルバムがリリースされてから48年。ほぼ半世紀になる。2009年のリマスターでオリジナルに忠実にという作業は完了したと考えて良いのではないか。これからも技術革新があり最新技術で昔の音が良くなることはあるだろうが、すでにいい線をいっていると思う。

それよりも、そんな最近技術を駆使しながら、60年代のスタイルであるモノやリズム・トラックが全部片方のチャンネルから聴こえるようなステレオ・ミックスを聴くというのは何とも滑稽ではないかと思う。
現代の感覚を持った最新鋭のリミックスを聴いてみたいと思う。それは一種のBeatlesの新譜に近い感覚だ。

ただ、Beatlesを深くリスペクトしてくれる人たちに作業をしてもらいたい。『Love』のようにBeatlesで遊ぶのではなく、あくまでBeatlesの新しい楽典というか、バイブルというか、次の時代にも通じるような時代を超越するリミックスであってほしい。
それは60年代がまだ技術の発達があまりにも未熟だったからだ。2005年と2015年の曲を聴いても、多少の流行り廃りはあるものの時代の違いは決定的には分からない。1960年と1970年だと劇的に違う。60年は普通はモノラルの時代だが、70年代にはステレオの時代になっている。録音方法も、2チャンネルしかないので、歌と演奏と、そのバランスを見てお終いという感じだったものが、8チャンネルでステレオが普通、それ以上も登場しつつある。楽器もギター、ベースはもちろん、ドラム、ピアノ、オルガンに弦楽器等、すべてアコースティックだったが、70年代にはシンセサイザーのような電子楽器も登場している。
そして現在はデジタルの時代で、チャンネル数は実質無限だし、音の加工も修正も細かな調整もすべて出来る。60年代とは何もかもが違う。そういう現代の環境の中で出来上がる現代感覚のリミックスが聴いてみたい。

当時の録音はアナログ・テープへの録音で、それに重ねて録音していたり、そもそもすでにミックス前の音が残っていないものもあるので、すべてを完全にリミックスするのは無理だ。
しかしそれでも可能なことはたくさんあるので、是非ともそれに期待したい。

すでにリミックスされた『Sgt. Pepper』と『White Album』は素晴らしかった。オリジナルへのリスペクトが充分に感じられながら新しいものが出来た。新たな発見が沢山あってとても楽しいものになった。
これから全アルバムになっていくのか分からないが、是非やってほしいと思う。特に初期のものをやってもらいたい。どの程度遡れるのか、そもそも録音した時もたいしたトラック数は使っていないので、リミックスと言えるほどのものはないのかもしれないが、やる価値はあるだろう。
2009年のリマスターも初期のステレオのものは完全に左右に別れているのではなく、多少中央よりに寄せてあったので、これも一種のリミックスだが、もっと大々的にやってほしいと願うのだ。

昔のLP(全部は持っていないかったが)から、1987年のCD、2009年のリマスターと購入し、わずかな違いを楽しんだ。あとはリミックスを聴ければ安心して死ねるというものだ。

2018年11月20日火曜日

Mr.Big

自ら「大物」と名乗ってしまうこのバンド名が、実は70年代の英国バンド・Freeの楽曲からとられているのは有名な話し。実際、その曲のカヴァーもしている。

1988年にその「大物バンド」の結成のニュースが飛び込んで来た時は興奮した。何しろビリー・シーンとポール・ギルバートがいるというのだ。ちょっと不思議な取り合わせにも思えたが、ビリーは当代きっての凄腕ベーシスト。直前はデイヴ・リー・ロスのバンドでやや大人しめのプレイをしていたが、相手がポール・ギルバートとなると、そうもいかないだろう。何しろポールは、当時最強の早弾きテクニシャンのイングヴェイ・マルムスティーンを超えたのではとも噂される光速ギタリスト。最もホットな若手ギタリストといえるプレイヤーだからだ。
この2人が組むのだから、超テクニカルなプログレシヴィ・ロックでもやるのだろうか?という感じだった。
ちなみに、エリック・マーティンはまったく知らない無名のヴォーカルだし、パット・トーピーも調べれば「ああ、Impellitteriにいたドラマーね」という程度の知識だった。だからこそ、余計にギターとベースのバンドだと認識したものだ。

次のニュースは新曲「Addicted To That Rush」のビデオだった。
イントロからのベースとギターは予想通りのハイレベル・ユニゾン・プレイだったものの、ハスキーなヴォーカルを中心とした楽曲に意外に感じつつも好感を持った覚えがある。ちょうど時代はLAメタル、ヘア・メタルの時代からブルーズ・ロック回帰への流れで、それにもピタッとハマる骨太ロックという感じ。今でも1stアルバムは最高のブルーズ・ロック・アルバムだと思う。ブルーズがベースでありながら、派手なギターフレーズもところどころに散見され、太いベースが屋台を支えるバランスが最高だと思う。

更に2ndでは、前作を踏襲しつつも、ポップな「Green-Tinted Sixties Mind」や「Just Take My Heart」、そして何と言っても全米No.1を獲得した「To Be With You」と、ブルーズだけではなくBeatlesっぽいポップさも打ち出す。
この2ndも1stとは違った意味で最高傑作と言えるのではないかと思う。

3rdは少し落ち着いた感じがするが、個人的に「Promise Her The Moon」はMr.Bigでも最高の曲ではないかと思うほどの美しい曲。この1曲のおかげで1st、2ndに匹敵するアルバムだ。

だが、この初期の3枚で一区切りになってしまう。(個人的に)
96年の「Hey Man」も良い曲はあったが、なぜか初期のようにワクワク感がない。ライブを見たのも96年が最後だ。
この後、ポールが抜けてリッチー・コッツェンが入り、ある意味期待もしたが、ポールのポップさ分かりやすさが消えた分、いまいちになってしまう。(ポールのソロの方が楽しめた)
ポールが復帰した2010年の『What If…』、それ以降のライブ等も含めて、「さすが」と思わせる素晴らしいさはあるが、やはり初期のワクワク感はない。これは自分が年老いたせいかもしれない。

最後に、今年(2018年)、パット・トーピーが亡くなってしまった。パーキンソン病と闘っていたことを公表し、まともにプレー出来なくなってもバンドと共にあったが、ついに力尽きた。パットはバンドの名付け親でもあった。
ライブでのハイライトの一つだったドラム・ソロの「Yesterday」を覚えている。もちろんBeatlesのあの曲だ。ドラムのない落ち着いたあの曲をドラム・ソロにするという発想。内容は激烈な16ビートをメインにしたテクニカル・ドラムの中で、パットがあのメロディを歌うというもの。ドラム・ソロというと、ビート感がなくただ激烈に叩きまくっているものが多いが、パットのソロはちゃんと曲になっていて、ビート感もあり、しかし手数の多い激しさもあるものだった。そしてヴォーカル付き。声の良さもさることながら、ヴォーカルとドラムだけという原曲以上にシンプルな構成と、弦楽四重奏+ギターの曲を激しいドラムで表現するという面白さが相まったものだった。

2018年11月14日水曜日

Whitesnake 始動!

デイヴィッドがDeep Purpleを脱退(バンドはそのまま解散)したのは1976年。ソロ活動を経て、Whitesnakeが結成に動き出したのは77年後半。本格的に始動したのは78年だ。

だが、デイヴィッドのソロ第1弾のタイトルが『Whitesnake』である事からも分かるように、当初からワーキング・タイトルは「Whitesnake」であった。
ミッキー・ムーディーの他、18歳のサイモン・フィリップスやプロデューサーでもあったロジャー・グローバーも参加した1stソロのレコーディングをし、そのままのメンバーでライブ活動をしようとしたことからも、本当はこれがWhitesnakeになるはずだった。
しかし、実際は他のメンバーは予定がつまっており、ライブ活動は出来ないまま終わっている。

デイヴィッドはライブ活動こそが重要でステージに立ちたいと願っていたが、76年3月にDeep Purpleとしてリバプールで最後のステージに立って以来途絶えていた。だからソロをリリースしてすぐにライブ活動に入りたかったが、バンド活動するだけの資金がなかった。デイヴィッドは金のない実力派シンガーという存在だったので、活動に行き詰まるたびにどこかのバンドへ加入するのではという噂が流れ、この時もBlack Sabbathへの加入が噂された。

さて、77年5月にようやく1stソロがリリースされ、それに先立ち3月、4月に2ndをレコーディングしている。何と2ndソロにはロニー・ジェイムズ・ディオも参加している(「Give Me Kindness」のバッキング・ヴォーカル)。
そしてレコーディング終了後はライブ活動へのバンド結成へ動き出す。いよいよWhitesnakeの始動だ。2ndソロのレコーディング・メンバーも、色々予定があったためそのままWhitesnakeにはならなかった。

ミッキー・ムーディは、気が合い、実力も相応で、作曲と演奏の両方でコンビになれるので、最重要パートナーだが、デイヴィッドも本人も1人ギターは望まなかったので、もう1人のギタリストを加入させることとなる。
デイヴィッドはファンクやソウルを開拓していたTrapezeを大変評価していたので、グレン・ヒューズを除く残りの2人、メル・ギャレーとデイヴ・ホランドに声をかけるが、Deep Purple解散後、グレン共々Trapeze再興に動き出していたために願いは叶わず。
代わって候補に浮上したのは、Paice Ashuton Lord(PAL)のバーニー・マースデンだった。デイヴィッド、ミッキーともに別のルートで接点があった上、実力、作曲能力、歌唱力とも申し分なかった。
Paice Ashuton Lordが暗礁に乗り上げ、Wings参加もなかなか決まらなかったバーニーはディヴィッドのバンド加入を決断し、早速1曲作ってみせた。加入から数日で完成

これでこの時点でのライブ活動メンバー(Whitesnakeになるバンド)はデイヴィッド、ミッキー、バーニーとなる。ベース、ドラム、キーボードは未だ不在。各パートのメンバー選考(オーディション)をしなくてはならない状況だった。
77年8月にミッキーがフランキー・ミラーのツアーに参加して際に知り合ったベーシスト・クリス・スチュアートにWhitesnake参加を呼びかけ、見事にOKの返事。ミッキー、バーニーも含めドラマーのオーディションを行なう運びとなるが、当日、クリスが来ることが出来なくなってしまう。ドラムのオーディションにベースは重要なので、仕方がなく近所に住んでいてバーニーの知り合いだったニール・マーレイに声をかけ、代役をやってもらうことになった。結局、ドラマーは不採用となるが、ニールが加わることになり、そのニールの知り合いであるドイヴ・ドウルがドラマーの座を得る事になる。
12月16日に初のリハーサルを行った。これがWhitesnake始動の瞬間である。キーボードは不在のままだった。

デイヴィッドのソロがリリースされたのは1977年と78年。折しもロック界はパンク旋風は吹き荒れているまっただ中ということもあって、デイヴィッドのソロは見向きもされずに終わってしまった。中には好意的な紹介記事もあったりしたが、その記事もまた無視されるようなご時世で、それほどパンクは凄まじい勢いを持っていた。
1977年12月、デイヴィッドは時間が開くとロンドンのライブハウスを巡っていた。その時不在のキーボード奏者を物色するためだ。デイヴィッドは真面目だし一生懸命だ。
ある晩のライブハウス・Speakeasyで頭がツンツンの若者に声をかけられている。「ヘイ、お前は誰だ」。
デイヴィッドは「俺は退屈な老いぼれだよ。で、あんたは?」と返事。
「俺はシド・ビシャスだ」
するとディヴィッドは「俺はDavid Ferociousだ。さっさと退散した方が身のためだぜ」と言い放った。
FerociousはもちろんViciousに引っ掛けている言葉で、意味は「獰猛な」である。シド20歳、デイヴィッド26歳であった。

2ndソロは78年3月になってようやくリリースされ、これを前後していよいよプロモーション・ツアーも計画されていた。いよいよ本格活動である。不在だったキーボードは2月に入ってからデイヴ・ドウルのツテでブライアン・ジョンストンに決まり、バンド名も正式にWhitesnakeとなり(当初はDavid Coverdale's Whitesnake)、全員揃ってリハーサルを行なった。3月2日に最終リハーサルをし、翌日が初のステージとなった(2ndリリースの1週間前)。ロンドンのリンカーン・テクニカル・カレッジのステージであった。デイヴィッドにとってはDeep Purpleの最後のライブ以来なので76年以来、2年ぶりということになる。
曲はデイヴィッドの2ndソロ曲を中心に、Deep Purpleの曲、そして数曲のカヴァー、「Rock Me Baby」や「Ain't No Love in The Heart of the City」等だ。「Heart of The City」はWhitesnakeとしてのどの曲よりも先に演奏されていたということになる。

プローモーション・ツアーは20回に満たないで終了し、ここまででキーボードはブライアン・ジョンストンからピート・ソリーに交代することになった。そして4月初旬に最初のEP『Snakebite』をレコーディング。アルバム制作は時間がかかるので、その前に何らかの形でバンドの音源を残したいという思惑からだ。4月下旬にはライブ活動を再開し、5月下旬から1stアルバムのレコーディングと精力的に活動。
6月20日に『Snakebite』がリリースされ、その後もライブ活動。8月にはジョン・ロードが加わり、ピート・ソリーの録音をすべてロードのものに差し替えられ、1stアルバム『Trouble』は10月にリリースされた。

2ndソロのリリースから、Whitesnake初のライブ、EPと1stアルバムの制作とリリース、早くも2度のメンバー・チェンジと、まさに怒濤の78年だ。だが、すべては上向きだ。
こうしてWhitesnakeがロック界に姿を現わした。

2018年11月9日金曜日

2人のギタリストの役割

Whitesnakeはツイン・ギターのバンドだ。ミッキー・ムーディとバーニー・マースデン、ミッキーとメル・ギャレー、メルとジョン・サイクス、エイドリアン・ヴァンデンバーグとヴィヴィアン・キャンベル、エイドリアンとスティーヴ・ヴァイ、ダグ・アルドリッジとレブ・ビーチ、そしてレブとジョエル・ホークストラ。(他にも若干の違うパターンがあるが、主なものはこんなところ)

ギタリストたちを選んでいるのはもちろんデイヴィッドだ。適当に選んでいるのではなく、ある程度明確なビジョンを持って選ばれている。というより、一番最初のミッキーとバーニーのパターンをそのまま後にも当てはめているだけかもしれないが、同じタイプを2人にはしないように、仮に似たタイプになってしまった場合は出来るだけ違う色を出し合うよう仕向けているようだ。

で、役割を簡単に分けてみると、一番重要なのは作曲パートナーだ。ギタリスト2人のうちのどちらかが作曲パートナーとなり、より重要度が増す存在となる。
ステージ上では、弾きまくる派手系ハードロック・ギタリストと、渋めのブルーズ・ギタリスト。バーニーとミッキーがモロにそれだ。スティーヴ・ヴァイが加入した時にエイドリアンが自分の存在価値に迷った際、デイヴィッドは明確な答えを与えている。「君はセクシーなブルーズ・ギタリストでいてくれ」

ハードロック  ブルーズ  作曲パートナー
 バーニー   ミッキー   バーニー
  メル    ミッキー    メル
 サイクス    メル     メル
 サイクス          サイクス
ヴィヴィアン エイドリアン エイドリアン
 ヴァイ   エイドリアン エイドリアン
  レブ     ダグ     ダグ

役割を簡単に整理してみた。立場が微妙なのはメル・ギャレーで、ミッキー在籍時はハードロック・タイプのギタリストとしての立場であったが、相棒はジョン・サイクスに変わるとブルース・タイプに変化する。特にメルのプレイ・スタイルが変わったわけではないので、あくまで相対的に、相手とのバランスを見て、ということになる。

サイクス一人ギタリスト時代は、ブルーズ担当がいないことになる。この時期は、サイクスの持つ多少のブルーズっぽさと、デイヴィッドのブルーズ色がWhitesnakeのブルーズ担当というが、他の時期と比べてブルーズ色が弱くなったのは仕方のないところだ。
しかし、その時期に最大のヒットである『Serpens Albus』を作ってしまったことでWhitesnakeのバンドとしてのアイデンティティがよく分からないことになってしまう。以降、ブルーズ担当のエイドリアンはヨーロッパ人だし、それほどブルーズの人というわけでもない。ヴィヴィンやヴァイと比較した場合にブルーズ寄りというだけのことだ。ダグはアメリカ人だが、やはりそれほどブルーズの人でもない。器用なのでブルーズもやれるのと、プロになってから勉強して身に着けたブルーズだ。

そして現在のラインナップはレブ・ビーチとジョエル・ホークストラだ。この2人はどちらがハードロックでどちらがブルーズなのだろう。
スライドの得意なミッキーと弾きまくりたいバーニーの場合は違いがハッキリしていたが、サイクス以降は全員ハイテク・ギタリストなので、基本的にどんなスタイルでも出来てしまう。ギタリストの奏法的な視点で見てみると、サイクス、エイドリアンはピッキング重視タイプ、ヴィヴィアン、ヴァイ、レブはハンマリング多用のレガート・タイプといえる。ダグもレガート・タイプだと思うが、レブと比較すればずっとピッキング派だ。(サイクスもハンマリング多用の早弾きは特徴的だが、ピッキングのトリルやゲイリー・ムーア・タイプの早弾きもあり、他と比べればという意味。エイドリアンも同様)
前者がブルーズ・タイプになりやすく、後者が派手系になりやすい。サイクスもヴァイやレブと比べれば明らかにブルーズ・タイプに分類されるだろう。
そこから考えればレブとジョエルの場合、レブはレガート・タイプだが、ジョエルはかなりのテクニシャンで、ハンマリング系もタッピングもレブ以上ではないかと思えるほどのレガート巧者だ。しかしピッキング系もブルーズっぽいものもかなりのものなので、結局彼はオールマイティの何でも屋だ。
ソロを担当する曲を見るとある程度わかるのだが、レブとジョエルの場合はこれも微妙だ。レブをブルーズ・タイプに分類するのは結構無理がある気がするが、以前はダグの担当だった「Crying In The Rain」なんかもブルージーに弾いている。しかし、もちろんジョエルもブルージーなものは出来るので、結局現ラインナップは各曲ごとに適材適所に役割を変えているのではという風に考えるしかないだろう。

と、いうよりもはやWhitesnakeのギタリストの役割は存在しないのかもしれない。ダグとレブまではある程度ライバル関係になって火花を飛び散らせるような雰囲気もあった。が、現在はレブが望んだ位置に着く事が出来、新参者のジョエルは何でも出来るので、何を押し付けられても問題ない、ということでとても平和にやっている、ということではないかと思う。トミー・アルドリッジが「ダグがいた時は今より緊張感があった」という証言を遺している。

2018年11月7日水曜日

作曲パートナーは3年前後で交代

Whitesnakeのメイン・ソングライターはもちろんデイヴィッド・カヴァデイルで、一人でも曲を作れるが、大抵ギタリストの相棒と組む場合が多い。作曲能力が高い相手で、ギタリストなので曲の核となるリフを作ることも出来る。
その作曲パートナーは約3年で交代するという話し。

Whitesnakeの歴史を見ると、初期の売れない時代はミッキー・ムーディ、バーニー・マースデン、メル・ギャレーといったギタリストがいて、ブレイクした時はジョン・サイクス、エイドリアン・ヴァンデンバーグ、ヴィヴィアン・キャンベル、ステーヴ・ヴァイといった面子で、前者と比較すれば後者の方が圧倒的に華やかだし、ハイテク・ギタリストになる。

前者はアルバム6枚とデビューEPを作り、後者はアルバム2枚(最初の解散をした『Slip Of The Tongue』までで数える)。
長い不遇の初期と短いブレイク時代というふうに見えるが、しかし、実際は初期の活動ペースが早過ぎるためにそう見えるだけだ。
更に言うと、メル・ギャレーとジョン・サイクスの在籍期間はとても短く、アルバム1枚でいなくなった印象が強いが、実際は意外にも結構長い

まず、在籍期間が一番長いミッキー・ムーディを見ておこう。ミッキーはあまり多作ではなく、デイヴィッドの作曲パートナーとしては不充分な存在となる。作曲パートナーとしては、Deep Purple解散後の1977年のソロの1st、翌年の2ndで活躍したが、Whitesnake結成後はその座をバーニーに奪われてしまう。しかし、ミッキーは作曲に携わらないというのではなく、その後も曲を提供し続けているので、他のギタリストと比べると立場が特殊だ。バンド創設メンバーでブルージーなプレイが得意なところを買われていたのだろう。ブルージーなギタリスト・ミッキーと作曲パートナーのバーニーというのが初期の図式だ。
1976年後半から78年前半までとなり約2年ということになる。

バーニー・マースデンは1977年末に加入するが、作曲パートナーらしくなるのは78年の『Trouble』制作時から。78年の前半はデイヴィッドの2ndソロの『Northwinds』を制作とリリースの時期だったので、78年中盤からということになる。
そこからは相思相愛的に蜜月の関係で順調にバンドのキャリアを上げていくが、ヒット曲『Fool For Your Loving』を出した後あたりから下降線に入る。馴れ合い・マンネリといった悪循環に陥り、1981年『Saint & Sinners』制作中に活動停止(正確には82年1月で停止)、バーニーはそのままバンドを離れることになる。
1978年中盤から1981年いっぱいまでなので、3年半だ。ちょっと長めだが、誤差の範囲内としてほしい。

デイヴィッドは当初よりTrapezeのギタリスト・メル・ギャレーに目をつけており、Whitesnake結成時にも声をかけて断られていたが、1982年になってついに成就した。バーニー同様、一番に作曲能力を買っていての勧誘だった。彼の作曲能力は『Slide It In』で充分に発揮されている。
メルがバンドを去ることになるのは、ツアー中にふざけて車の上で飛び跳ねていたところ、足を滑らせ屋根から落ち、更に運の悪いことに同様にジョン・サイクスがその上に落ちたために腕を骨折してしまったことによる。当初はドイツの病院に入院し回復を待ったが、腕にギプスをつけなければならなくなり、デイヴィッドに「そんなものをつけた君を見たくない」と言われ、そのまま解雇となってしまった。
1982年後半(夏の終わり頃)から84年後半(やはり夏の終わり頃)で2年。少し短めだが、それでも2年はパートナーの座についていた。

メルの離脱はツアー中だったので、新しいギタリストを探している暇はなく、Whitesnake史上唯一の一人ギタリスト時代となる。メル在籍時は比較的おとなしくしていたサイクスが、一人ギタリストになってからは俄然存在感を増していく。Whitesnakeというバンドは「看板のデイヴィッドとサザンロック風バックバンド」であったが、「スーパー・ヴォーカリスト、スーパー・ギタリスト、スーパー・ドラマーのいるスーパー・バンド」に変貌した。それでサイクスへの信頼感も増して、次のアルバムはこのメンバーでいくことを決める。作曲パートナーはもちろんサイクス。
サイクスが力を発揮した(加入は1983年)のはメル・ギャレーがいなくなった1984年の後半から、ケンカ別れとなった1986年暮れまでで、約2年半。

エイドリアン・ヴァンデンバーグは、『Serpens Albus』に対する貢献は1986年暮れの「Here I Go Again」レコーディングのみで、しかもこれはバーニー時代の曲なので、ギタリストとしての貢献はあったが、作曲パートナーとしてはツアー中にデイヴィッドと作曲を始めてからなので、1987年後半ということになる。1990年に解散となるので3年半となるが、途中レーコーディングの期間にぬけているので3年。
Slip Of The Tongue』はほぼエイドリアンの曲だが、腕の不調で離脱した際、スティーヴ・ヴァイへあれこれ注文をつけることはなく、完全に引っ込んでいたというから、曲のアレンジやギター・パートについてもこの時期のインプットはないことになる。

この時期以降のWhitesnakeは活動のペースもゆったりしたし、メンバーの他の活動も認めるなど、だいぶ変化したので、この『約3年交代説』もここまでとなるが、デイヴィッドは意識はしていなかっただろうが、結局コンスタントに相棒を取り替えていたことになる。
バンドの顔は、もちろんデイヴィッドであり、デイヴィッドさえいればWhitesnakeは成立する。曲の善し悪しやバンド内の適度な緊張感といったものが低下して来ると、新しい血を導入する。長く続ける上で常に新鮮でいる秘訣なのだろう。マンネリ化も避けられるというものだ。

2018年11月5日月曜日

1990年、初来日公演!

Rolling Stonesの初来日は1990年。1973年に来日が決まりチケットも発売されたが、過去の大麻所持を理由に入国許可がおりずに中止になったことがあった。90年の時は、追加公演も含め東京ドームで10回の公演が行われた。私はそのうちの最終日、2月27日(火)に行った。
マイク・タイソンの試合が東京ドームで行われ、衝撃のKO負けを喫した直後の日程。当時は、60年代からの伝説のバンドついに初来日!という感じで大騒ぎになったし、メンバーはすでに40代後半だったので、多分これが最初で最後の来日となるのではないかと言われていた。

セットリストは以下の通り。

Continental Drift (89年『Steel Wheels』収録)
Start Me Up (81年『Tattoo You』収録)
Bitch (71年『Sticky Fingers』収録)
Sad Sad Sad (89年『Steel Wheels』収録)
Harlem Shuffle (86年『Darty Work』収録)
Tumbling Dice (72年『Exile on Main St.』収録)
Miss You (78年『Some Girl』収録)
Ruby Tuesday (67年『Flowers』収録)
Angie (73年『Goats Head Soup』収録)
Rock And A Hard Place (89年『Steel Wheels』収録)
Mixed Emotilons(89年『Steel Wheels』収録)
Honky Tonk Woman (69年 シングル曲)
Midnight Rambler (69年『Let It BLeed』収録)
You Can't Always Get What You Want (69年『Let It BLeed』収録)
Can't Be Seen(89年『Steel Wheels』収録)
Happy (72年『Exile on Main St.』収録)
Paint It Black (66年 シングル曲)
2000 Light Years From Home (67年『Their Satanic Majesties Request』収録)
Sympathy For The Devil (68年『Beggars Banquet』収録)
Gimme Shelter (69年『Let It BLeed』収録)
It's Only Rock 'N Roll (74年『It's Only Rock 'N Roll』収録)
Brown Sugar (71年『Sticky Fingers』収録)
Satisfaction (65年『Out Of Our Heads』収録)
Jumpin' Jack Flash (69年 シングル曲)

最後の「Jumpin' Jack Flash」はアンコール曲。
全時代を網羅するようなグレイテスト・ヒッツ的な選曲だ。『Steel Wheels』からの曲が多いのは、そもそも『Steel Wheels』のプロモーション・ツアーなので当たり前だ。

実質のオープニングが「Start Me Up」なのは事前に知っていたが、知る前から予測していた。タイトルからしてピッタリだから。
2年前にミックがサイモン・フィリップスやジョー・サトリアーニを引き連れ単独来日公演をした時のオープニングは「Honky Tonk Woman」だった。それもなかなか良いオープニングだと思っていたが、今回は無難な選曲。

もう少しマニアックな選曲があっても良いと思ったが、初来日だし、何しろこの年の東京ドームだけで50万人以上が見たことになるのだから、無難な選曲で良いのだろう。

どの曲もプロフェッショナルなレベルで音も良かったし、たくさんのバック・ミュージシャン(5名?)のサポートもあり、完成度も高いものだった。同じ場所での10回目だったのにも関わらず、気合いも充実していたし、素晴らしかったと思う。

ただ、Stonesの場合、その魅力は黒いノリだったり、ブルージーさだったり、そして、チープでルーズなワイルドさだったりするはずなので、あまりの充実ぶりにちょっと違和感というか「?」マークをつけたのも確かだった。80年代のライブ映像もたくさん見ていたので予想通りとも言えるのだが、完成度の高いライブがStonesらしくないように感じてしまう。これはその後のライブでも感じることだが。
「Satisfaction」にしろ「Paint It Black」にしろ、テンポが早いのでアッサリしている印象で、スネアのヌケがやたらと良いために軽い感じで聴こえてしまう。「Midnight Rambler」も70年代のような緊迫感や危険なニオイはしなかったし、「Sympathy For The Devil」は割と良かったと思うが、ゴージャスな感じは少し違和感。『Steel Wheels』の曲が一番良かったのは、当然といえば当然かもしれないが、メンバーの見た目の年齢以外には歴史を感じさせる物は少なかった。

予想に反していたことの一つに、キースのギターがかなり上手かったこと。時折入れるオブリガードなどかなりカッコ良かったし、キースらしいキメ・ポーズも良かったし、ヴォーカルをとった「Happy」もかなり盛り上がった。

きっと私はStonesはルーズで下手クソという先入観が強すぎるのだろう。本来のStonesをちゃんと見ていないのかもしれない。

チープさという意味で、95年のライブアルバム『Stripped』の雰囲気は良かったと思う。