2018年11月14日水曜日

Whitesnake 始動!

デイヴィッドがDeep Purpleを脱退(バンドはそのまま解散)したのは1976年。ソロ活動を経て、Whitesnakeが結成に動き出したのは77年後半。本格的に始動したのは78年だ。

だが、デイヴィッドのソロ第1弾のタイトルが『Whitesnake』である事からも分かるように、当初からワーキング・タイトルは「Whitesnake」であった。
ミッキー・ムーディーの他、18歳のサイモン・フィリップスやプロデューサーでもあったロジャー・グローバーも参加した1stソロのレコーディングをし、そのままのメンバーでライブ活動をしようとしたことからも、本当はこれがWhitesnakeになるはずだった。
しかし、実際は他のメンバーは予定がつまっており、ライブ活動は出来ないまま終わっている。

デイヴィッドはライブ活動こそが重要でステージに立ちたいと願っていたが、76年3月にDeep Purpleとしてリバプールで最後のステージに立って以来途絶えていた。だからソロをリリースしてすぐにライブ活動に入りたかったが、バンド活動するだけの資金がなかった。デイヴィッドは金のない実力派シンガーという存在だったので、活動に行き詰まるたびにどこかのバンドへ加入するのではという噂が流れ、この時もBlack Sabbathへの加入が噂された。

さて、77年5月にようやく1stソロがリリースされ、それに先立ち3月、4月に2ndをレコーディングしている。何と2ndソロにはロニー・ジェイムズ・ディオも参加している(「Give Me Kindness」のバッキング・ヴォーカル)。
そしてレコーディング終了後はライブ活動へのバンド結成へ動き出す。いよいよWhitesnakeの始動だ。2ndソロのレコーディング・メンバーも、色々予定があったためそのままWhitesnakeにはならなかった。

ミッキー・ムーディは、気が合い、実力も相応で、作曲と演奏の両方でコンビになれるので、最重要パートナーだが、デイヴィッドも本人も1人ギターは望まなかったので、もう1人のギタリストを加入させることとなる。
デイヴィッドはファンクやソウルを開拓していたTrapezeを大変評価していたので、グレン・ヒューズを除く残りの2人、メル・ギャレーとデイヴ・ホランドに声をかけるが、Deep Purple解散後、グレン共々Trapeze再興に動き出していたために願いは叶わず。
代わって候補に浮上したのは、Paice Ashuton Lord(PAL)のバーニー・マースデンだった。デイヴィッド、ミッキーともに別のルートで接点があった上、実力、作曲能力、歌唱力とも申し分なかった。
Paice Ashuton Lordが暗礁に乗り上げ、Wings参加もなかなか決まらなかったバーニーはディヴィッドのバンド加入を決断し、早速1曲作ってみせた。加入から数日で完成

これでこの時点でのライブ活動メンバー(Whitesnakeになるバンド)はデイヴィッド、ミッキー、バーニーとなる。ベース、ドラム、キーボードは未だ不在。各パートのメンバー選考(オーディション)をしなくてはならない状況だった。
77年8月にミッキーがフランキー・ミラーのツアーに参加して際に知り合ったベーシスト・クリス・スチュアートにWhitesnake参加を呼びかけ、見事にOKの返事。ミッキー、バーニーも含めドラマーのオーディションを行なう運びとなるが、当日、クリスが来ることが出来なくなってしまう。ドラムのオーディションにベースは重要なので、仕方がなく近所に住んでいてバーニーの知り合いだったニール・マーレイに声をかけ、代役をやってもらうことになった。結局、ドラマーは不採用となるが、ニールが加わることになり、そのニールの知り合いであるドイヴ・ドウルがドラマーの座を得る事になる。
12月16日に初のリハーサルを行った。これがWhitesnake始動の瞬間である。キーボードは不在のままだった。

デイヴィッドのソロがリリースされたのは1977年と78年。折しもロック界はパンク旋風は吹き荒れているまっただ中ということもあって、デイヴィッドのソロは見向きもされずに終わってしまった。中には好意的な紹介記事もあったりしたが、その記事もまた無視されるようなご時世で、それほどパンクは凄まじい勢いを持っていた。
1977年12月、デイヴィッドは時間が開くとロンドンのライブハウスを巡っていた。その時不在のキーボード奏者を物色するためだ。デイヴィッドは真面目だし一生懸命だ。
ある晩のライブハウス・Speakeasyで頭がツンツンの若者に声をかけられている。「ヘイ、お前は誰だ」。
デイヴィッドは「俺は退屈な老いぼれだよ。で、あんたは?」と返事。
「俺はシド・ビシャスだ」
するとディヴィッドは「俺はDavid Ferociousだ。さっさと退散した方が身のためだぜ」と言い放った。
FerociousはもちろんViciousに引っ掛けている言葉で、意味は「獰猛な」である。シド20歳、デイヴィッド26歳であった。

2ndソロは78年3月になってようやくリリースされ、これを前後していよいよプロモーション・ツアーも計画されていた。いよいよ本格活動である。不在だったキーボードは2月に入ってからデイヴ・ドウルのツテでブライアン・ジョンストンに決まり、バンド名も正式にWhitesnakeとなり(当初はDavid Coverdale's Whitesnake)、全員揃ってリハーサルを行なった。3月2日に最終リハーサルをし、翌日が初のステージとなった(2ndリリースの1週間前)。ロンドンのリンカーン・テクニカル・カレッジのステージであった。デイヴィッドにとってはDeep Purpleの最後のライブ以来なので76年以来、2年ぶりということになる。
曲はデイヴィッドの2ndソロ曲を中心に、Deep Purpleの曲、そして数曲のカヴァー、「Rock Me Baby」や「Ain't No Love in The Heart of the City」等だ。「Heart of The City」はWhitesnakeとしてのどの曲よりも先に演奏されていたということになる。

プローモーション・ツアーは20回に満たないで終了し、ここまででキーボードはブライアン・ジョンストンからピート・ソリーに交代することになった。そして4月初旬に最初のEP『Snakebite』をレコーディング。アルバム制作は時間がかかるので、その前に何らかの形でバンドの音源を残したいという思惑からだ。4月下旬にはライブ活動を再開し、5月下旬から1stアルバムのレコーディングと精力的に活動。
6月20日に『Snakebite』がリリースされ、その後もライブ活動。8月にはジョン・ロードが加わり、ピート・ソリーの録音をすべてロードのものに差し替えられ、1stアルバム『Trouble』は10月にリリースされた。

2ndソロのリリースから、Whitesnake初のライブ、EPと1stアルバムの制作とリリース、早くも2度のメンバー・チェンジと、まさに怒濤の78年だ。だが、すべては上向きだ。
こうしてWhitesnakeがロック界に姿を現わした。

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